ハワイ王国

King Coat of Armsハワイは、1843年にイギリスとフランスが同国を独立国として承認したことにより、初の非ヨーロッパ系自然国家として国際社会の仲間入りを果たします。 続いてデンマーク(1846年)、米国(1849年)、スウェーデンおよびノルウェー(1852年)、ベルギーおよびオランダ(1862年)、スペイン(1863年)、スイス連合(1864年)、ロシア(1869年)、日本(1871年)、オーストリア−ハンガリー(1875年)、および統一後のドイツ(1879年)が、同様にハワイ王国を独立国家として承認します。

承認当初のハワイ王国は、ヨーロッパの王国の中でも特に島国の王国だったイギリス(イングランド)と、密接な連携を築きます。ハワイ王国は、アメリカ合衆国の思惑に対しては常に懐疑的でした。というのも、南北戦争後も奴隷市場における黒人への非人道的で不当な扱いが続いていることを知っていましたし、当時まだ法的に人権を認められず牛のように使い捨ての扱いを受けていた「インディアン」達への迫害を目にしてしてきたためです。ハワイの先住民は肌が色黒であるため、もしアメリカの思惑通りに占領されてしまえば、奴隷として扱われ、二等市民とみなされて人権を失う可能性があるのではないかと危惧されたのです。

King Kalakaua
1836-1891

米国での南北戦争以降、アメリカやヨーロッパの強力な実業家たちは、ハワイ君主制の弱体化と企業利益の保護を目的として、秘密裏に武装民兵を編成し始めます。1875年には、米国と当時のハワイ王国との間で互恵条約が承認され、ハワイ産砂糖の米国への免税輸出が始まったことにより、アメリカ人実業家に多大な利益がもたらされ、砂糖産業の急激な拡大が進みます。実業家たちは、その利権をさらに保護するため、1887年ハワイ王国憲法をカラカウア王に強要します。武装民兵の武力を盾に、憲法への署名に応じなければ武力に訴え、近臣も含めて危害を加える、と王を脅して署名を迫ったことから、それはのちに銃剣憲法として知られるようになります。決して批准されることのなかったこの「憲法」は、あたかも イギリスの立憲君主国を創造するかのように見せかけていました。しかしこの憲法は、君主制の権威をはく奪し、アメリカ人やヨーロッパ人及びハワイ先住民のエリートによって操られた政府の立法府や内閣に権力を与えるものだったのです。これにより、ハワイ産砂糖の免税輸入を継続することと引き換えに、米国に真珠湾の排他的な使用権を与える新条約を議会で通過させることが可能となりました。ただし1890年には、真珠湾を統制していた米国が、ハワイの砂糖産業を援護することとなった先の条約に基づく競争優位性を排除する新しい立法を可決しました。

1887年の 銃剣憲法 下では、不動産の価値に基づいて投票資格を与えるという新たな条件を規定し、すでに投票権にも変更を加え始めていました。 ハワイ先住民に加えて、王国のもとで 帰化し、人口の大部分を占めていた日本人や中国人など多くのアジア系住民も、投票権をはく奪されることになります。これによって、ハワイの市民権を必要とするまでもなく完全な投票権を手に入れることができた裕福なアメリカ人やヨーロッパ人など、お金持ち財界貴族による投票権の独占が保障されました。1893年までには、ハワイ先住民や公民権を奪われた帰化市民らの支持を得た女王リリウオカラニ(Lili’uokalani)が、新しい憲法を導入して、これらの不公平を是正するよう試みます。

1893年1月17日、経済的および政治的な権力を失うことを恐れた サンフォード・ドール と、その仲間の地元実業家からなる委員会は、アメリカ海軍の助けを得てハワイ王国を制圧・崩壊させ、 ハワイ暫定政権 の設立を宣言して、当地がアメリカ合衆国に併合されるまでのあいだ統治を行いました。王国崩壊への道すじは、少なくとも1887年の銃剣憲法設立当初から計画されていたと考えられ、1820年代からハワイ全土に出現していたプロテスタント宣教師教会の従属を得て実現します。女王の支持者のうち何人かは、建前上の「無血革命」の結果殺害され、その他は投獄されました。
さらなる流血を避けたいと願った女王は、米国政府に対し王国崩壊を抗議し、自らの復権と正義の勝利を期待します。

「私ことリリウオカラニは、神の恵みとハワイ王国憲法のもと女王として君臨するものである。私はここに、私をはじめハワイ王国立憲政府に反旗を翻し、暫定政府の確立を主張する一部の人物が行う一切の行為に対して、厳粛に抗議する。米国の全権公使ジョンL.スティーブンス閣下が、米国の軍隊をホノルルへ上陸させて暫定政権を支持すると宣言したことにより、私はアメリカ合衆国の優勢に屈したのである。これ以上の武力衝突やそれに伴う犠牲を避けるため、私は今こそ、悔いながらもかかる武力のもとに権力を譲歩する。但し、いずれ米国政府が提示された事実に基づき、同国の代表によるこの行為を取消し、ハワイ諸島における憲法上の統治者として私の立場を復権させるまでのあいだの譲歩とする。」

Queen Lili`uokalani
1838-1917

これを受けて、ドールとその共謀者は、すぐさまワシントンでアメリカ合衆国へのハワイ併合を要請するロビー活動を実施します。一方でハワイ王国のメンバーは、復権に向けたロビー活動を展開しました。当時の民主党系 グロバー・クリーブランド米大統領は、王国の崩壊が違法の戦争行為であると判断しました。そこで島嶼併合の検討を拒否し、まず女王の王位復権に取り組みます。すると、王国を打ち倒し ハワイ共和国の建国を宣言した実業家エリート達は、そのほとんどが共和党員であったことから、クリーブランド大統領の二期目が終了し、新たに共和党系の大統領が誕生するのを待って、再び併合案を打ち出すことにします。1895年1月5日、ハワイ先住民で構成する自由の戦士が反革命を掲げて発起しますが、白人実業家エリート率いる優勢な武力にかなわず、数人が射殺されて失敗に終わります。リリウオカラニ女王は、反逆罪で逮捕され、王宮で永久的に幽閉の身となり、ついに退位を余儀なくされてしまいました。このクーデターが失敗に終わったのち、米国はハワイ侵略を実行に移します。ハワイには傀儡政権が設置され、米国に島々を「割譲」することになったのです。

1897 年 3 月 4 日に共和党のウィリアム ・ マッキンリーが大統領に就任すると、以後30 年以上に渡る共和党政権による統治が始まりました。マッキンリー率いる共和党は、「明白なる運命(マニフェスト・デステニー)」(帝国主義的な拡大を正当化し必要善として擁護する政策)を主張し、軍事戦略的・経済的観点から強くハワイ併合を支持するとともに、クリーブランド大統領が取り組んできたハワイ王国の復権に向けた活動を弱体化させてしまいます。マッキンリーの要求に応じて署名したハワイ併合の新条約が、承認を得るため議会へと送られました。それに応じて、ハワイ愛国同盟とその女性部が議会へ反対の嘆願を行います。その年の9月と10月に、フイアロハアイナ(Hui Aloha `Āina)が、ハワイ住民の過半数を上回るハワイ先住民21,269人から、合計556ページにわたる併合反対の署名を集めました。フイカライアイナ(Hui Kālai`āina)は、さらに王政復古を求める17,000人の署名を集めます。彼らは米国上院へ嘆願書を提出したのち、上院議員へのロビー活動を展開し、1897年にはマッキンリーの併合条約の無効化に成功します。

しかし米国議会は1898 年に、ニューランズ決議をもって不法にハワイ王国の併合を断行し、ハワイをアメリカ・スペイン戦争開戦中の太平洋における軍事拠点とみなしたほか、太平洋上における将来的な領土拡大をめざして展開の足掛かりとします。 リリウオカラニ女王は、ハワイ政府(とその住民)への補償もなく米国が島々を併合したことについて、窃盗の域に達すると指摘し、強硬に反対します。

このように早急かつ強制的なハワイ諸島の米国併合は、大部分が非白人系で構成される居住地を領土に帰することを目的に適用された大がかりな制度の一部にすぎなかったのです。1898年に、選挙権が(白人だけでなく)島の男性市民全員に拡大された際には、アメリカ国内で初となる「非白人系有権者が過半数を占める地域の指導者」がハワイに誕生する可能性を受けて、米国議会内に大きな懸念が広がりました。しかし新領地においては、非白人系が占める過半数の公民権をはく奪する規則や規制を布き、学校教育におけるハワイ語指導の禁止などの措置を講じます。

1898年に開戦し、アメリカの圧倒的な強さで短期決戦となった対スペイン戦争のあと、米国は1899 年のパリ条約に基づいてキューバの独立を約束する一方、元スペイン領のプエルトリコ、グアムおよびフィリピンを米国に併合します。スペインが太平洋の植民地における権力をアメリカに譲渡したため、米国の帝国化がいっそう強化されることになります。米国がフィリピン解放軍の打破を目指して長きにわたる残酷な戦争を展開した時にも、新ハワイ領は、重要な軍事基地としてアメリカを支え続けます。1896年以来、独立を目指してスペイン人と戦ったフィリピン解放軍は、アメリカ・スペイン戦争の短期決戦の間こそその大多数がアメリカ人を支持したものの、その後は裏切られたと感じて対立に発展しました。この血なまぐさい独立戦争は、20世紀に入っても続き、ついにフィリピン解放軍は敗北します。

Prince Kuhio Kalaniana`ole
1871-1922

マッキンリー大統領が、就任二期目開始早々の1901年9月に暗殺され、当時副大統領だったセオドア・ルーズベルトが後継の大統領となった後も、「聖なる運命」路線は継続されました。クヒオ王子やジョン・ヘンリー・ワイズといった著名なハワイ先住民も、当初こそ共和党に断固反対したものの、ハワイ先住民の現状を打開するためには強い権力が必要だとして、最終的に共和党員となります。彼らは、所有権が明らかでない開墾用地について(ハワイアンホームランドとして)休耕地化を促進する1921年ハワイアン・ホーム・コミッション法の設立に寄与しますが、あいにく20万エーカーの土地を確保するにとどまります。この土地は、「もともと農夫や漁師だったはずのハワイアンは、土地を奪われて追われるように都市に移り住むよう強要されたのだから、先住民として再び自給自足ができるように固有の土地を確保しよう」という意図で確保されたものです。これに加えて、ビジネス上のつながりから強制的に公民権を剥奪されたその他のハワイアンと、50%以上先住民の血を引くと定義される人々が、ハワイアンのコミュニティに分裂を招いています。このことが、過半数を占める共和党員にとって優位に働き、島の経済的・政治的な統治に影響を与え続ける要因となっています。

ハワイ王国の崩壊に反旗を翻すとともに、ハワイアンを政府へ輩出することを目的として1900年に創設されたハワイ民主党は、1959年に米国州となった後のハワイにおいては、圧倒的支持を得る党となりました。

1993年には、民主党系のビル ・ クリントン大統領並びに米国議会が、米国市民を代表し、ハワイ先住民に対して「ハワイ王国の転覆とハワイ先住民の自決権はく奪」について謝罪しました。しかし、共和党主導の連邦議会からの反対にあったことが主な理由となり、これ以降の認知と補償については達成することができませんでした。


1993年11月23日−ハワイ王国略奪に対する謝罪状(US Public Law 103-150)に署名するクリントン大統領【ハワイアン・キングダムTシャツの背面に抜粋されています】
写真左から:アル・ゴア副大統領とハワイ州議会の代表ら(ダニエル・イノウエ、パッツィー・ミンク、ニール・アベクロンビー現ハワイ州知事、ダニエル・アカカ)


UA MAU KE EA O KA AINA I KA PONO -大地の生命は正義によって保持される
(1840年代以来ハワイ王国のモットーとなっていた言葉で、1959年以降は、米国50番目の州として誕生したハワイ州の公式モットーです。)